はじめに
産業保健の分野において、作業関連筋骨格系障害(Work-related Musculoskeletal Disorders: WMSDs)の予防と管理は重要な課題です。日本国内の労働災害統計によれば、筋骨格系障害は休業を要する疾患の上位を占めており、労働者の健康と企業の生産性に大きな影響を与えています。このような背景から、産業保健理学療法士の役割はますます重要となっています。
本稿では、認知工学と人間工学の先駆者であるイェンス・ラスムッセン(Jens Rasmussen)が提唱したSRK(Skill-Rule-Knowledge)モデルを紹介し、このモデルが産業保健理学療法士の介入戦略にどのように応用できるかを探ります。
ラスムッセンのSRKモデルとは
ラスムッセンのSRKモデルは、1983年に発表された人間の行動と認知プロセスを3つのレベルで分類するフレームワークです。このモデルは、当初は原子力発電所の運転員の意思決定プロセスを分析するために開発されましたが、現在では人間工学、認知工学、安全科学など幅広い分野で応用されています。
SRKモデルの3つのレベルは以下の通りです:
1. スキルベースの行動(Skill-based Behavior)
スキルベースの行動とは、熟練した定型作業において行為が自動化され、無意識のうちに対処されることを指します。例えば、熟練した自転車の運転や、長年行ってきたデスクワークでのタイピングなどが該当します。この段階では、作業が高度に自動化されており、認知的負荷が少なく、行動は主に感覚運動系によって制御されます。
重要な特徴として:
- 高度に自動化された行動パターン
- 意識的な注意をほとんど必要としない
- 人間の信頼性が最も高い(エラー率が低い)
- 並行して他のタスクを実行することが可能
2. ルールベースの行動(Rule-based Behavior)
ルールベースの行動とは、日常よく経験する事象に関して、対処方法があらかじめパターン化され、事象に適当な対処方法が当てはめられることにより対処することです。「もし〜ならば、〜する」というルールに基づいた行動パターンが特徴です。例えば、医療現場でのトリアージプロトコルや、特定の症状に対する標準的な治療アプローチなどが挙げられます。
重要な特徴として:
- パターン認識と記憶されたルールの適用
- 半意識的なプロセス
- 中程度の認知的負荷
- ルールの適用誤りによるエラーが発生する可能性
3. ナレッジベースの行動(Knowledge-based Behavior)
ナレッジベースの行動とは、初めての事象に遭遇したとき、意識上で内外の知識を参照して、考えて対処することです。新しい状況や問題に直面した際に、既存の知識を応用して解決策を導き出すプロセスが含まれます。
重要な特徴として:
- 高い意識的努力と認知的処理
- 分析的思考と問題解決
- 最も高い認知的負荷
- 人間の信頼性が最も低い(エラー率が高い)
- 限られたワーキングメモリと情報処理能力による制約
SRKモデルの人間工学と産業保健における意義
SRKモデルは、人間の行動パターンを理解し、作業環境や訓練プログラムを設計する上で重要な視点を提供します。特に産業保健分野では以下の点で価値があります:
- エラー予測と予防:行動レベルごとのエラーパターンを予測し、適切な対策を講じることができます。
- 作業設計の最適化:可能な限り、より信頼性の高いスキルベースの行動に移行できるような作業設計を促進します。
- トレーニングプログラムの開発:作業者がナレッジベースからルールベース、そしてスキルベースへと効率的に移行できるトレーニング方法を設計できます。
- ヒューマンエラー分析:事故や障害発生時の行動レベルを分析することで、より効果的な再発防止策を講じることができます。
産業保健理学療法士によるSRKモデルの応用
産業保健理学療法士は、SRKモデルを活用して以下のような介入戦略を展開することができます:
1. アセスメントとリスク評価
まず、職場環境と作業内容を評価し、各作業がどの行動レベルで実行されているかを分析します。例えば:
- スキルベースの作業:長年行われている反復作業、高度に自動化された動作
- ルールベースの作業:標準作業手順書に基づく作業、定型的な問題への対応
- ナレッジベースの作業:新しい機器の操作、予期せぬ問題への対応
この分析に基づき、各レベルに応じたリスク評価を行い、特にナレッジベースの活動については追加のサポートや訓練の必要性を検討します。
2. 物理的人間工学的介入
物理的な環境や作業ツールの設計において:
-
スキルベースの行動を促進する設計:
- 人間の自然な動作パターンに適合した作業スペースの設計
- 直感的に使用できるツールの導入
- 身体的負担を最小限に抑える姿勢の促進
-
ルールベースの行動をサポートする設計:
- 視覚的手がかりやガイドラインの導入
- エラープルーフ設計(間違った使い方ができない設計)
- フィードバック機構の組み込み
-
ナレッジベースの行動を支援する設計:
- 認知的負荷を減らすための情報表示
- 意思決定支援ツールの提供
- 複雑な情報の視覚化
3. 組織的人間工学的介入
作業組織や管理方法において:
-
作業・休息サイクルの最適化:
- 特にナレッジベースの行動が多い場合は、適切な休憩時間を確保
- 高度な認知的負荷がかかる作業の配分
-
作業ローテーションの設計:
- 様々な行動レベルの作業をバランスよく配分
- 過度に同じ行動レベルの作業が続かないようにする
-
参加型エルゴノミクスの促進:
- 作業者自身が自分の作業環境や方法を改善できる仕組みづくり
- 現場の知識と専門知識の融合
4. 認知的人間工学的介入
情報処理と意思決定プロセスにおいて:
-
認知的負荷の管理:
- ナレッジベースの作業における情報の整理と優先順位付け
- 複雑な情報の適切な提示方法の開発
-
エラー管理戦略:
- 各行動レベルに応じたエラー検出・回復メカニズムの構築
- エラーの発生を前提とした安全設計
5. トレーニングプログラムの開発
SRKモデルに基づいたスキル開発プログラムの設計:
-
ナレッジベースからルールベースへの移行促進:
- 基本的な原則の教育
- パターン認識能力の開発
- シナリオベーストレーニング
-
ルールベースからスキルベースへの移行促進:
- 反復練習
- フィードバックに基づく微調整
- 自動化を促進する段階的なトレーニング
-
スキルベースレベルでの定期的な再評価:
- 自動化された行動の質の確認
- 悪い習慣や不適切な動作パターンの修正
事例研究:産業保健理学療法士による介入実践
事例1:製造業での組立作業改善
ある電子機器製造工場の組立ラインでは、作業者の間で上肢の筋骨格系障害が多発していました。産業保健理学療法士がSRKモデルを用いて分析した結果、以下の問題点が特定されました:
- 新しい製品モデルの導入時に、作業者はナレッジベースの行動を強いられていた
- 標準作業手順書はあるものの、視覚的サポートが不足し、ルールベースの行動への移行が遅れていた
- 作業台の高さや工具の配置が不適切で、スキルベースの行動でも不自然な姿勢を強いられていた
介入内容:
- 作業台の高さと角度を調整し、人間工学的に最適な姿勢を促進
- 視覚的な作業ガイドとチェックリストを導入し、ルールベースの行動をサポート
- 新モデル導入時のトレーニングプログラムを改善し、ナレッジベースからルールベースへの移行を加速
- 定期的な小休止とストレッチングプログラムの導入
結果:
- 6ヶ月後、上肢の筋骨格系障害の報告が40%減少
- 新製品導入時の学習曲線が改善(習熟までの時間が30%短縮)
- 作業品質の向上(不良率の減少)
事例2:オフィス環境でのVDT作業改善
IT企業のカスタマーサポート部門では、長時間のコンピュータ作業により頸部・肩部の疼痛を訴えるスタッフが多くいました。SRKモデル分析の結果:
- タイピングなどの基本操作はスキルベースだが、複雑な問い合わせ対応はナレッジベースの行動が多い
- 長時間の集中作業により認知的疲労が蓄積し、姿勢への注意が低下
- 作業環境の個人別調整が不足していた
介入内容:
- 個別のワークステーション評価と調整(モニター位置、椅子の高さ、デスクレイアウト)
- 複雑な問い合わせに対する意思決定支援ツールの導入(ナレッジベース負荷の軽減)
- マイクロブレイクとポスチャーリマインダーソフトウェアの導入
- 認知負荷の高い作業と低い作業のバランスを考慮したスケジューリング
結果:
- 頸部・肩部症状の報告が50%減少
- 顧客対応時間の短縮
- スタッフの満足度向上
SRKモデル応用の限界と注意点
SRKモデルを産業保健介入に応用する際には、以下の点に注意が必要です:
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個人差の考慮:同じ作業でも、経験や技能レベルによって個人ごとに行動レベルが異なる場合があります。
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行動レベルの流動性:環境条件(疲労、ストレス、時間的プレッシャー)によって、スキルベースの行動がルールベースやナレッジベースに後退することがあります。
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自動化の両面性:スキルベースの行動は効率的である一方、状況変化への適応性が低下し、「自動的な」エラーが発生するリスクもあります。
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文化的・組織的要因:SRKモデルは個人の認知プロセスに焦点を当てていますが、実際の行動は組織文化や社会的要因の影響も大きく受けます。
まとめ:産業保健理学療法士へのSRKモデル実践ガイドライン
産業保健理学療法士がSRKモデルを効果的に活用するためのガイドラインを以下にまとめます:
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包括的アセスメントの実施:
- 作業の認知的側面と身体的側面の両方を評価
- 各作業の行動レベルを特定
- 個人の経験レベルと作業の複雑性を考慮
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多層的な介入戦略の開発:
- 物理的環境の最適化
- 組織的要因への対応
- 認知的サポートの提供
- トレーニングプログラムの設計
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継続的モニタリングと適応:
- 介入効果の定期的評価
- 作業条件の変化に応じた戦略の調整
- フィードバックループの確立
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多職種連携アプローチ:
- 安全衛生担当者
- 人間工学専門家
- 産業医
- 経営管理者
- 作業者自身
おわりに
ラスムッセンのSRKモデルは、産業保健理学療法士が職場での筋骨格系障害予防と健康促進活動を行う上で、強力な理論的枠組みを提供します。人間の行動を認知的側面から理解することで、より効果的で持続可能な介入戦略を設計することが可能になります。
近年の働き方の多様化や技術革新に伴い、従来の身体的負荷だけでなく認知的負荷も考慮した総合的なアプローチが求められています。産業保健理学療法士は、SRKモデルを活用し、人間工学の視点から作業環境と作業者の適合性(フィット)を高め、安全で健康的な職場づくりに貢献することができるでしょう。
参考文献
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Rasmussen, J. (1983). Skills, rules, and knowledge; signals, signs, and symbols, and other distinctions in human performance models. IEEE Transactions on Systems, Man, and Cybernetics, SMC-13(3), 257-266.
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Reason, J. (1990). Human error. Cambridge University Press.
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He, C., & Söffker, D. (2023). Quantification of human behavior levels by extending Rasmussen's SRK model and the effects of time pressure and training on the levels switching. Heliyon, 9(4), e15019.
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Le Coze, J. (2015). Reflecting on Jens Rasmussen's legacy. A strong program for a hard problem. Safety Science, 71, 123-141.
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Vicente, K. J., & Rasmussen, J. (1992). Ecological interface design: Theoretical foundations. IEEE Transactions on Systems, Man, and Cybernetics, 22(4), 589-606.
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- https://www.fdma.go.jp/singi_kento/kento/items/kento047_06_2-2.pdf